プライベートの人間関係は極端に絞ってしまっているペキタです。
「社会人たるもの、いろいろな人達と広く関わって人間としての幅を拡げていくことが大事ですよ。」
と、どこかの何かの記事か本かで読んだような気がします。
言いたいことはわかります。
一理あるとも思います。
ただ、本当に一緒に過ごしたい人との時間や、自分がやりたいことを我慢してまで、そのようなことに時間を費やす価値はあるのでしょうか。
いわゆる「ゆとり世代」と呼ばれる若者達が社会に出始め(かく言う私もゆとり世代です)、数年が経ち、職場での上司や先輩との飲み会問題などが時々取り上げられています。
平気で上司や先輩からの飲み会の誘いを断る若者達。
「最近の若者はどうなってるんだ!俺達の若い頃はなぁ〜云々かんぬん」
裏(もしくは表)で付き合いの悪さに対して散々文句を言われていようと「真のゆとり世代」は全くダメージを受けません。
なぜなのでしょうか?
一つ考えられるのは、「真のゆとり世代」は自分自身が価値があると思うものに対してストレートに行動してしまうのかもしれません。
周りから、あれはやっておけ、これはやっておけ、とアドバイスを受けたとしても、実際に行動するのは他ならぬ自分です。
自分の価値観を大事にしているが故に起こされている行動なのかもしれません。
あれ?
ということは、飲み会を断られてる上司や先輩は価値がないって判断されてるってこと?
いやいやそんな早とちりなさらずに。
実際のところ、誘いを断った若者達は、恐らくそこまで深く物事を考えていません。
恐らくは感覚なのです。
自分の気持ちに正直だとも言えるかもしれません。
(なんとなくイヤだな…)
(なんとなく面倒くさいな…)
どんな人であっても、なんとなーくマイナスなイメージが浮かんでしまうことはあると思います。
その上で、
我慢するか。
それとも、
我慢しないか。
結局はそれだけの違いなのでしょう。
「ゆとり世代」というカテゴリが存在しているせいで、なにかにつけて文句をつけたり、馬鹿にしたがる人達は少なからず存在します。
わかりやすくカテゴライズされているからこそ「ゆとり」がターゲットにされてしまうのかもしれません。
このような安易な評価は「ゆとり」に限らず色々な場面で散見されます。
性別、血液型、出身地、、、。
しかし、それはカテゴライズのせいではなく、その人自身の問題なのでしょう。
大抵の人は実はそのことを知っているはずです。
本気で「ゆとり(カテゴライズ)のせいだ!」などと考えている人は、ごく一部の人だけだと思います。
実はその人自身の問題なのだと知っていながら、人を安易に評価してしまうのは、その人自身の評価を下げてしまいかねないような気がします。
他人に対する安易な評価は、相手にとっても自身にとっても何のプラスにもなりません。
つらつらと書いてきた「ゆとり世代」の私ですが、実は「ゆとりだよね~」と言われることに対して不快に感じたことはありません。
他人からどのように評価されようと自分の気持ちに芯を持っていれば結局は何も気にならないのかもしれません。
日々の生活を過ごしていると色々なことが起こるとは思いますが、周りからの評価に翻弄されることなく自分を信じて意思を貫いていきたいものです。
ある意味、私にとっては「ブログを書き続ける」という行為も自分の意思を信じて続けていることです。
今のところ、ブログが人生の中心にあるわけではないですが、「本気」でこれからも「ゆとり」つつ頑張っていきます!